コラム

2014/01/511 大隈重信の母に学ぶ“5つの教え”

政治家として、教育者として、現在の日本の礎を築いた大隈重信。
政治家としては多くの重要な役職や内閣総理大臣を歴任し、早稲田大学を創立しました。
佐賀の七賢人の一人にも数えられ、数々の偉業を達成した彼の人格形成の陰には、彼の母三井子の素晴らしい教えが生かされていたと言われています。

大隈重信は幼い頃、とても甘えん坊で、すぐに泣きべそをかく子どもだったと言われています。

大隈重信は、現在の佐賀県水ヶ江に生を受けました。
幼いころは「八太郎」という名前を与えられていた彼は、武家に生まれた子どもとして腰に木刀を差すようになっても、家に帰るとすぐにお母さんに抱かれてお乳を吸っていたそうです。

ある夏の日のことです。
親戚の子どもたちと共に虫取りに出かけた八太郎は、一番幼かったために、カゴを持つ係を押し付けられていました。
しかし彼は何度もうっかりしてセミを逃がしてしまってばかりで、親戚の子どもたち一同にいつも責められ、泣かされてばかりいたそうです。
しかし、そんな弱虫で泣いてばかりいる頼りない八太郎のことを母親の三井子は決して責めたり咎めたりしなかったそうです。

幼少の重信はおっとりとした子どもで、少し間の抜けたところもあったのかもしれません。
そんな重信のぼんやりした一面を表す例として、雨降りの日には傘をさして出かけるものの、帰りがけに雨がやんでいるといつでも傘を忘れて帰ってきたというエピソードが残っています。

普通なら心配になって叱ったり責めたりしてしまいそうなエピソードばかりですね。
しかし、大隈重信の母三井子は決して彼を咎めることはありませんでした。
心の優しいことで評判だったという母の三井子は、重信の頼りない姿を慈愛に満ちたまなざしでいつも温かく見守っていたそうです。

早くに他界した父親の分までと女手ひとつで五人の子どもを育て上げた三井子。
大隈重信は大人になってからも、
「母に叱られたことはほとんどない」
と語っています。

重信の父が早世したのは彼が12歳の時です。
悲しみに打ちひしがれる家族の中で、母である三井子はいつまでも泣いてばかりいるのではなく、家族を支えて前へ進もうとしたといいます。
もちろん三井子自身も最愛の伴侶の突然の死に、大きな悲しみに襲われていたことは想像に難くないでしょう。
しかし彼女は、一家の柱とならねばならない時が来たことを知り、強く立ち上がろうとしていました。

そんな彼女が重信たちに教えた“5つの教え”は、今も語り継がれています。

母三井子の“5つの教え”。
決して重信を責めたり咎めたりせず、父の分までその人生を子育てにささげた母三井子が重信たちに言い聞かせた教えは次のようなものでした。

1. ケンカをしてはいけません。
2. 人をいじめてはいけません。
3. いつも先を見て進みなさい。
4. 過ぎたことをくよくよ振り返ってはいけません。
5. 人が困っていたら助けなさい。

現代の教育にも十分に活用することのできる素晴らしい教えであると思います。

大隈重信は、母を語るこんなエピソードを残しています。

「わが輩は母一人の手で育てられたが、十五、六歳の時分からすこぶる乱暴者で、まるでがき大将のようであった。友人が盛んに遊びにくるので、わが輩の家はクラブの如きものであったが、母は大層人を愛し、客を好まれたから、友人が訪ねてくることを非常に喜んで、手料理をこしらえて馳走してくれた」

こんな風に人を愛し、慈善を施すことを好んだ母三井子の姿は、大隈重信の、人と会うことが好きな政治の姿勢にも影響を与えていると言えます。 ここにも母の影響力の大きさを読み取ることができますね。

1899年、大隈は暴漢に襲われ、右足を失いました。
しかし、彼は暗殺未遂の犯人について、
「愛国の精神をもって行動したる志士なり」
と称賛したといいます。

大隈のこのような精神は彼を決して咎めなかった三井子の精神を受け継いだものであるでしょう。
彼は生涯母を尊敬し大切にしたと言われています。
私たちも彼女の教えに学ぶことはたくさんありそうですね。

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