コラム

2014/01/518 「近江聖人」中江藤樹が孝養を尽くした母の姿

中江藤樹を知っていますか?
江戸時代初期の儒学者で、日本における陽明学の開祖となった人です。
近江の国小川村で「藤樹書院」という塾を開き、武士や近所の人々に学問を教えていました。
たくさんの徳の多い行いや感化によって、「近江聖人」として広く敬われた人でした。

日本の歴史には、偉人と呼ばれる人は数多くいますよね。
しかし、聖人と呼ばれ敬われる人は決して多くはありません。
そのうちの一人が、「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹なのです。
内村鑑三の著書である「代表的日本人」では、中江藤樹について「ここに理想の教育者がいる」と語られています。

さて、そんな彼はその親孝行の逸話が時代を越えて語り継がれている人です。
「近江の聖人」中江藤樹に大きな影響を与えた母親とは、果たしてどのような人物だったのでしょうか。

かつての日本では、「何々の母」という形で理想とされる女性像、求められる母親像というのがしっかりと示されていたそうです。
そして彼の母親もまた、「中江藤樹の母」として理想の母親像の模範的な存在となっていたそうです。
興味ぶかいと思いませんか?

江戸時代初期である1604年、中江藤樹は生まれました。
中江藤樹の幼名は藤太郎と言います。
中江藤樹の父親は彼が小さなころにこの世を去りました。
彼女の母は、藤太郎をわがままな子に育ててはならないと考え、7歳の時に人に預けて学ばせることにしました。
藤太郎が家を離れる時に、彼女はこんな言葉をかけたと言われています。

「帰りたいなどと考えてはいけないよ。
 一生懸命学問して早く一人前の立派な人になっておくれ」

藤太郎は母の言葉をいつも心に留め、一生懸命学問し、先生に仕えたそうです。

彼は9歳の時に読み書きを習い始めました。
10歳になるころには「庭訓住来」や「貞永式目」を学び、全て暗記していたそうです。
17歳の時には、四書大全を学び終えていたそうです。
藤樹がいかに一生懸命勉学に励み、またいかに優秀な頭脳を持っていたのかがよくわかりますよね。

藤樹が実家を離れて2年目の冬が来た頃、藤樹は母がアカぎれやしもやけでつらい思いをしているということを知りました。
居ても立ってもいられなくなった彼は、アカぎれやしもやけによく効くという薬を買い求めて、雪の中を師匠の家を抜けて実家へと走ったのでした。

夜まで走ってようやく彼は故郷にたどり着きます。
母は井戸の水を汲み、重いつるべを引っ張っている最中でした。
幼少の中江藤樹は
「お母様!」
と思わず叫んで泣きながら走り寄りました。
ところが、彼の姿に気づいた母は
「止まりなさい」
と言って藤樹が走り寄ってくるのを止め、こう諭したそうです。

「男子は一度目標をもって家を出たら、めったな事で戻ってきてはなりません。
 私のことなど心配せずに祖父の家に戻りなさい」

愛する息子が会いに来てくれて嬉しくないはずはありません。
彼女は藤樹の事を思って、辛く突き放したのでした。

25五才の春、中江藤樹は夫の死後一人暮しを続けている母を大洲に迎えるために帰郷しました。
しかし、気の強い母は同行することを拒んだのでした。
それでもやはり母のことが気になって仕方がなかった藤樹は、母親に孝養を尽くすために27歳の時に、武士としての将来を捨て脱藩して故郷に戻りました。
故郷に帰った彼は、私塾を開いて「藤樹先生」として近隣の人々に学問を教えて親しまれました。

こうして彼は、「孝」を宇宙の根本原理とする哲学を唱えるに至ったのです。

彼は「翁問答」の中で、
「胎内にある間も母徳の教化あり」
という名言を残しています。
彼がどれほど母親からの影響を大きなものと考えていたかがよく分かる言葉ですよね。

また中江藤樹は、ある人に与えた手紙の中でこんなことを言っています。

「母の胎内に宿って以来、二つ三つになるまでの母の苦労、その恩愛の恩などよくよくのものと思って、二、三歳の子供のころから今日までに習い染みこんだ様々な心をすべて除き去り、ただ一つの思い、もしそのときに親たちがいなかったならばどうなっていただろうかに思いが至ったならばどうであろうか」

彼の心の中にはいつも母親への感謝があったのですね。

コペル 代表 大坪信之

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