コラム 大坪信之のワンポイント徳育アドバイス

2014/01/520 西郷隆盛を支えた父母の愛

薩摩藩の下級武士の家に生まれながら、藩主・島津斉彬に認められて江戸で庭番として仕えた西郷隆盛。
薩摩藩の代表になり、坂本竜馬の仲立ちで対立していた長州藩の木戸孝允と薩長同盟を結び、倒幕運動の中心人物になりました。
維新三傑の一人にも数えられています。

そんな西郷隆盛が育った背景についてお話ししたいと思います!

西郷隆盛は、文政10(1827)年の12月7日に生まれました。
幼名は小吉と言います。
父の西郷吉兵衛は、藩の中でも下から2番目に位置する下級武士でしたが、実質的にはほとんど無給であり一家はとても貧しい中に生活を強いられていました。
さらに次々に下の弟や妹が生まれ、7人の子どもと吉兵衛の両親を含め11人の大所帯はいつでも赤貧にあえいでいたのです。

しかし、これだけ大変な状況にあっても、明るく元気な西郷家には常に笑顔が溢れていました。
「正直の上にバカがつく」
と呼ばれた吉兵衛は、世渡り上手ではありませんでしたが、とても真面目な人格者でした。

こうして、貧しくも明るい立派な家庭に恵まれて隆盛はのびのびと元気に育っていきます。

隆盛は少年時代は造士館に通って勉強しました。
彼が13歳の頃、友人とけんかして刀で腕に大けがをしてしまってからは武道への志を捨て、いっそう学問にはげむようになりました。
この大けがをした事件について次のようなエピソードが残っています。

貧しい生活の中で、母は着物を縫う内職をしたり、子どもたちを連れて畑で野菜を作ったりして家計をやりくりしていました。
隆盛が13歳の秋、近所の友人と些細なことからけんかになって、彼は自慢の腕力で友人を投げ飛ばしました。
そのことに恨みを持った友人は城下で隆盛を襲撃し、彼の腕に大きな刀傷を負わせたのです。
彼は手ぬぐいで応急処置をして家への道を歩いていました。

日も暮れて暗くなり始める頃、やっとの思いで家の近くまでたどり着いた隆盛の目に、玄関の前にたたずむ黒い人影が映りました。
すでに夕闇が迫っています。
よく見るとそれは母の姿でした。
隆盛の帰りが遅いのを心配して、玄関の前に立ちつくしてずっと彼を待っていたのでした。
母の優しさに触れた隆盛は思わず、「ワーッ」と声を上げて泣き出してしまったそうです。

それから数日後、噂を聞き伝えた友人たちが隆盛の家に押しかけてきました。
当時の薩摩では、「泣き虫、弱虫、欲張り」が、男子の最も恥ずべきことだと、厳しく教えられていたのでした。
「おまえは意気地のないやつだな。母親を見て泣いたと聞いたが、本当か!」
厳しく問い詰める友人たちに、隆盛ははっきりとこう答えたそうです。

「確かに、俺は泣いた。
 しかし、痛くて泣いたのではない。
 母に甘えて泣いたのでもない。
 さらに、残念で泣いたのでもない。
 家から出て、夕闇の中に立ち、心配そうに待っていてくれた母の顔を見た時、
 『ああ、母に心配をかけてしまった。親不孝なことをしてしまった。
  すまんことをしてしまった』
 と、心が強く責められて、泣かずにおれなかったのだ」

母への恩が彼の心を強く揺さぶったのですね。 このように隆盛はいつも父母への感謝を忘れず二人の恩をとても強く心に感じていました。

薩摩には古くから、ある人材教育システムが存在していました。
「郷中教育」と呼ばれるシステムです。
これは、地域それぞれのコミュニティーの中で、完全縦割り社会を作り、年長者が年少者を育成するというシステムです。
ボーイスカウトもここから始まったそうです。
そして、西郷隆盛の母親の教育もまた、この郷中教育に基づいたものでした

郷中教育では、三つのことが大切にされています。
それは、

・弱いものをいじめるな
・嘘を言うな
・負けるな

ということです。
この、「負けるな」という教えには、相手にだけではなく自分にも負けるな、という意味も含まれています。

西郷隆盛の母は、いつも彼にこんな教えを守らせていました。

【貧乏は恥ではない。貧乏に負ける事が恥なのだ】

「負けるな」という郷中教育に基づいた素晴らしい教えですよね。
こんな教えがあったからこそ、西郷隆盛の家族は貧しいながらもいつも明るく元気にいられたのでしょう。

「命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬという人は始末に困るものです。
 しかしこの始末に困る人ならでは、国家の大業は成し遂げられぬ」

これは後年の西郷隆盛の言葉です。
まさに彼と彼の家族はこの言葉の通りだったと言えます。
明るく元気な家族と、郷中教育に基づいた母の教えが、彼の生涯に大きな影響を与えていたのですね。

コペル 代表 大坪信之