コラム

2014/01/523 宮沢賢治の心に残る母の教え

故郷岩手をモチーフとした理想郷「イーハトーブ」を舞台に、宇宙的とも評される独自の物語世界を描いた童話作家・宮沢賢治。
生前は無名に近い状態であったにもかかわらず、没後に草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となりました。

今回は彼に大きな影響を与えた母いちの教えについてお話したいと思います。

宮沢賢治の母であるいちは、1877年花巻市に生まれ、1893年に賢治の父、宮沢政次郎氏と結婚します。
そして3年後の1896年に長男である賢治が誕生しました。
いちはとても優しく気品があって立派な女性でした。
賢治は、いつでも心にゆとりをもち、明るい笑顔で人に接しする母のことが大好きでした。

賢治は小学校時代からとても優秀な子どもでした。
賢治と仲良しの三人組は特別に成績が良かったので、賢治の学級は優秀学級として校内中に知れ渡ったそうです。

また、彼は子どもながらに非常に判断力がありました。
小学校二年の時、賢治が友人と河原で遊んでいた時のことです。
友人の一人がいたずらにマッチで枯れ草に火を点けました。
火は一気に河原一面に燃え広がり、友人たちはパニックになってしまいます。
しかし賢治だけは冷静に衣服ではたいて火を消そうとし、自分たちだけで処理することは無理だと判断するとすぐに大人を呼びに行きました。
賢治の人並み外れた冷静な判断力のおかげで被害は最小限に食い止められました。

このようにとても賢く思慮深い子どもだった賢治ですが、彼の最も優れた美徳は母親譲りの限りない優しさであったといわれています。

賢治は友達思いのとても優しい子どもでした。
賢治の優しさを示すいくつかのエピソードが残されています。

ある日学校で一人の生徒が 赤いシャツを着て皆からはやしたてられました。
それをみかねた賢治は、
「自分も今度赤いシャツを着てくるから彼をそんなにいじめないでくれ!」
と訴えて皆を黙らせたそうです。

また、道路で友達と遊んでいる時、友人の一人が荷馬車の轍で指先をけがしてしまったとき、賢治は友人の傷口を自分の口につけ、指から出る血を吸ってやったのでした。

彼が小学校低学年の時、いたずらの罰として水をみたした茶碗をささげて廊下に立たされた友人がいました。
それを見た賢治は、茶碗の水を全部飲み干してしまったこともあります。

このようにとても優しい心を持っていた賢治ですが、その根っこには毎晩寝る前に言い聞かされていたという母の教えがありました。
母いちが何度でも彼に繰り返した言葉はこのようなものでした。
「ひとというものは、ひとのために、何かしてあげるために生まれてきたのです」
素晴らしい言葉だとは思いませんか?
この言葉は時代を超えて今でも語り継がれています。
この母あっての心優しい賢治だと頷ける言葉ですよね。
このようにして彼は利他精神に基づいた独自の価値観を築き上げていったのです。

小学校五年生の時、賢治は父親に将来何になりたいかと問われ、
「むやみに偉くならなくてもよい」
と答えて家族全員を驚かせたそうです。
賢治は幼い頃から、自分だけが得をしようとは微塵も考えてはいませんでした。
自己犠牲や利他の精神は賢治のたくさんの作品を貫く大きなテーマであるともいえます。
それは幼い頃からの賢治の生き方そのものでした。

人のために自分が何ができるか、本当の幸せとは何かということを賢治は生涯考え続けたのです。
母いちは自分の立身出世を考えようとしない賢治を見て、
「どうして賢さんは、あんなにひとのことばかりして、自分のことは、さっぱりしないひとになったのですか」
と不思議がったそうです。
そんな母に、賢治の弟・清六は、笑ってこう答えました。
「お母さんがそう言って育てたのを忘れたのですか」

親はそのことを忘れていても、子どもは何度も教えられたことは決して忘れないものなのですね。

宮沢賢治の中に生き続け数多くの素晴らしい作品の原点となった母いちの教え。
彼ら親子の人生は、幼いころに親が伝えたことは必ず子どもの中に残るということを教えてくれているような気がします。

コペル 代表 大坪信之

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