コラム 大坪信之のワンポイント徳育アドバイス

2014/05/2225 湯川秀樹に母が教えた読書習慣

今回は日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹を育てた家族の教育環境についてお話したいと思います!

湯川秀樹は京都府出身の理論物理学者です。
中間子の存在を理論的に予言した湯川理論の正しさはイギリスの物理学者によって証明され、1949年に日本人として初めてノーベル賞を受賞しました。
核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に参加し、ラッセル=アインシュタイン宣言に共同宣言者の一人として名を連ねました。

このような天才湯川秀樹を育てた家族の教育には素晴らしいものがあったのです。

湯川秀樹は1907年に東京の麻布に生まれました。
彼の一家はいわゆる学者一家でした。
父・小川琢治秀樹は地質調査所員であり、後年、京都大学の教授に就任します。
祖父は長崎師範学校校長であり、兄弟たちも後に大学教授となるのです。
秀樹自身はのちにそれぞれが学問に没頭した自分の家族を振り返り、次のように述べています。
「母である小雪の苦心がなければ、私の兄弟のように学問ばかりやる者の一族は生まれなかったであろう」

興味深いですよね。
学者一家を作り上げノーベル賞受賞者を生みだした母・小雪の教育とはどのようなものだったのでしょうか。

小雪がとても大切にしていたことは、子どもたちに読書習慣を身につけさせることです。
秀樹の一家のお茶の間の卓上には、いつも「子供之友」という楽しい雑誌が置かれていました。
生活のルールなどためになることが子ども向けに面白く書かれている雑誌で当時人気を博していたそうです。
幼い秀樹はその雑誌を眺めながら、自然と読書に慣れ親しむようになります。

読書の最中に秀樹が知らない言葉や分からない内容にぶつかる時があります。
そんな時に彼が質問をすると、小雪はどんなに忙しくても何をしている時でも飛んできて丁寧に教えてくれました。
この時の母の瞳の美しさを後に秀樹は感謝の思いを込めて語っています。
加えて父親の琢治も学者で秀樹の家は図書館のように本であふれていたため、秀樹はたくさんの本に囲まれて育ちます。

学者秀樹の天才のルーツは幼いころに身に付けた優れた読書習慣にあると言っても過言ではありません。

同時に漢学に堪能な祖父が教えた素読も彼の学問の基礎を育てた重要な要素になります。
祖父である駒橘は秀樹が5、6歳の頃から漢籍の素読を教え込みました。
素読とは本の内容を暗唱できるようになるまで繰り返し音読する学問の方法です。

湯川は後に次のように語っています。
「あの頃祖父に漢籍の素読を学んだことは、決して無駄ではなかった。
 難解な漢文に自然と親しむことができたので、どんな書物でも難しいと感じずに読むことができるようになったのだから」

このように秀樹の学問はたくさんの本に囲まれた読書習慣が礎となっていることがよくわかりますね。

さて、読書習慣においては幼い頃から非常に優れていた秀樹ですが、勉強においてはなかなか成果が出ず成績も振るいませんでした。
当時の秀樹のあだ名は「イワン(言わん)ちゃん」。
黙りこくって無口な彼が後に天才科学者になろうとは誰も予想だにしませんでした。
しかし母・小雪だけは秀樹の天才を信じて疑わなかったのです。
成績のさえない秀樹を見て大学に行かせるか否かを迷っていた父に対して小雪は次のように訴えました。
「目立たない子だっているものです。
 目立つ子や才気走った子が必ずしも優れた仕事をする人間になるというわけではないでしょう。
 かえって目立たないような人間こそが……。」

こうして両親は秀樹を大学に進ませることを決意します。
どんなときにも信じてくれた母の愛情がなかったなら、ノーベル賞受賞科学者の湯川秀樹はいなかったかもしれません。

このように秀樹のことを深く思いやっていた両親ですが、秀樹に勉強を強いたことはありませんでした。
父親は子どもたちにいつも次のように語っていたのです。
「学校の成績のために勉強するなんておろかなことだ。
 自分が好きな学問を深く学びなさい」。
こうして秀樹は自ら勉強や読書にはげむ子どもに育っていったのです。

お分かりいただけたでしょうか?
天才湯川秀樹を育てたのは、幼い頃からの優れた読書習慣と才能を信じて環境を準備してくれた両親の深い愛だったのです。

コペル 代表 大坪信之