コラム

2017/06/2027 二宮尊徳を育てた家族の姿

二宮尊徳は江戸時代後期の農政家・思想家です。
一般には「二宮金次郎」として親孝行と勤勉の模範的な姿として修身の教科書で扱われたり全国の小学校に薪を背負い読書する彼の銅像が置かれるなどして親しまれてきました。

今回は彼の思想に大きな影響を与えたであろう、彼の父・母の人物像についてお伝えしたいと思います。

二宮尊徳が唱えたのは「報徳思想」。
経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すればいずれ自らに還元されると説く素晴らしい思想です。

彼はこの道徳思想を主張して「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導し社会に大いに貢献したのです。
貧困や苦難にも負けず一生懸命働きながら勉学に勤しんだ尊徳は、ついには幕臣となり農村や藩を貧困から救うために奔走しました。

そんな尊徳は足柄平野の比較的裕福な農家の長男として生まれます。父は当時の百姓としては珍しく読書好きの教養の深い人で尊徳の勤勉な性格に大いに影響を与えました。

一方で母はたいへん慈愛に満ちたとても優しい人でした。
いつも家族や子どもたちのことを一番に考え懸命に働きました。
そんな素晴らしい徳を備えた両親の愛情に囲まれた尊徳の幼少時代は幸せなものだったと言えます。

しかし、恵まれていた家計は徐々に傾き始めます。また、父の利右衛門は「栢山の善人」と呼ばれるほどのお人好しで、困っている人がいればたとえ自分の不利益になろうともお構いなしで助けずにはいられなかったのです。

この父親の私利私欲を捨てて他者のことを一番に考える性格は尊徳の「報徳思想」の根源をなしていたのかもしれませんね。
利右衛門はあまりに無欲で人がよすぎたために、物やお金を言われるままに貸してばかりいました。

そのせいで豊かだった二宮家はみるみるうちに困窮に苦しむようになってしまったのです。
しかしそんな苦しい状況の中でも尊徳の両親は希望を捨てずに厚い愛情で彼を包んでくれました。慎ましくも幸せな家庭において尊徳は幼少期を過ごします。

あまりにも無欲で他人のことを一番に考える父の姿と愛情で包んでくれた両親への孝行の気持ちが尊徳の徳を作り上げていくのです。

貧しいながらも身を寄せ合って幸せな日々を送っていた尊徳の家族ですが、大きな不幸が訪れます。
田畑を復旧しようと身体に鞭打って働いた利右衛門は、無理がたたって病の床に伏すようになりました。
金次郎は必死で両親を助けようと幼い弟をおぶって働きました。

尊徳は十四歳の時に父、十六歳の時に母をも失います。さすがの尊徳もこのときは深い悲しみに襲われ母の体にしがみつきむせび泣いていたといいます。

しかし、金次郎は、二人の弟をじっと見つめて、心に決心しました。何時までも泣いているときではない。しっかりしよう。金次郎は悲しみに負けることなく、懸命に働きながらも勉学に励み卓越した才能を発揮します。

「積小為大」の経済原理を体得し毎年その収益を増やして成人後間もなく二宮家の再興に成功するのです。
その後も努力を続けついには独自の「報徳思想」を打ち立て社会に貢献するようになりました。

二宮尊徳はこのような歌を残しています。
「父母も その父母も わが身なり われを愛せよ われを敬せよ」

早くに亡くしていても、父親、母親の人間性は大人になった後も引き継がれるということがよく分かるエピソードだと言えます。

コペル 代表 大坪信之

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