コラム

2014/01/516 「孟母三遷」語り継がれる母の知恵

性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した孟子をご存知ですよね。
儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれるほどの歴史に名を遺す大偉人です。

そんな彼の母もまた、非常に賢い人であったと言います。
孟子の母親の姓は「仇」と言いました。
父親の名は「孟激」といい、孟子がまだ幼いころにこの世を去りました。
孟子の母親は、なんと当時から「胎教」の重要性をよく知っていて実践していたのです。

『韓詩外伝』には、孟子の母親の言葉としてこんな内容が記されています。
「私はこの子を孕んでから、座席がきちんとしていなければ座らず、きれいに切っていないものは食べない。これこそが胎教である」
素晴らしい徹底ぶりですよね!

おなかの中から母親の心遣いを満身に受けた孟子は、すくすくと賢い子どもに育っていきました。 興味深いと思いませんか?

さて、孟子の母親がいかに子育てに熱心であったかは胎教の徹底ぶりからもよくわかりますよね。
日々の生活の中でも、孟子の母親は彼の寝起きなどの生活習慣や暑さ寒さの対策など、さまざまなことに心を砕きました。
彼女は、時には口で話して聞かせ、時には身を以て行動で示すことで彼の人格を立派に育てようとしたそうです。
素晴らしいですよね!

それでは、今でも言い伝えられる「孟母三遷」という四字熟語のもととなったエピソードについてお話ししましょう。

孟子の幼少時代には、彼の住む家のすぐ近くに墓地がありました。
孟子はいつしか、暇さえあれば葬式ごっこをして遊ぶようになっていました。
これを目にした孟子の母親は、
「ここはあの子が住むにはふさわしくないところだ」
と考え、住居を移すことにしたのです。

引っ越し先は市場の近くでした。
それからというもの、孟子は商人のまねをして商売ごっこをして遊ぶようになったのでした。
それを目にした孟子の母親は、またもこのように考えました。
「ここもあの子が住むにはよくないところだ」

彼らは再度引っ越しをして、今度は学校の近くに住むようになりました。
それからの孟子は、学生がやっている祭礼の儀式や、礼儀作法の真似事をして遊ぶようになったそうです。
孟子の母親は満足し、その場所に長く住んだそうです。

やがて孟子は成長すると、六経を学び、後に儒家を代表する人物となったのです。
これが、「孟母三遷」という四字熟語の原型をなす、「幼児の教育には環境が大切である」という教えを表すエピソードなのです。

お分かりいただけましたか?
孟子の母親は、彼を立派に育て上げることこそが自分にできる最高の仕事であり国への最高のご奉公であると考えていたそうです。
だからこんなにも熱心に、素晴らしい教育を施すことができたのですね。

さて、ある時孟子と母親の別れがやってきました。
孟子が十分に成長したので、彼女は孟子が他国で学問をすることを望み、家を出すことを決意したのです。
しかし、成長したとはいえまだ幼かった孟子は、ふるさとの優しい母の面影が恋しくてたまりませんでした。

ある日、孟子はさみしさのあまり故郷の母の前へとひょっこり顔を出しました。
ちょうどそのとき、孟子の母親は機織りの最中でした。
愛する息子が帰ってきて、嬉しくないわけはありません。
孟子の母親は一瞬顔をほころばせましたが、とたんにはっとした様子で優しくこう尋ねたと言います。

「孟子よ。学問はすっかり出来ましたか?」

孟子はこんな母の言葉に、少しうろたえてしまいました。
孟子の答えはこうでした。
「はい、お母さま。やはり以前と同じところを学んでいますが、いくらやっても駄目なので、やめて帰りました」

この言葉を聞くやいなや、孟子の母親はいきなりそばにあった刃物を取り上げると、苦心して織っていた織物を真ん中から裂いてしまったと言います
そして彼女はこのように孟子を諭したのでした。
「ごらんなさい、この布きれを――。
お前が学問を中途にやめるのも、この織物を中途でやめるのも、結果は同じですよ」

孟子はその場で自分の弱さを恥ずかしく思い、すぐさま都へと学問修行のために帰って行ったそうです。
こうして学問を重ね、孟子は天下一の学者になりました。
そんな彼の偉業は、こんな母の知恵に支えられていたのですね。
コペル 代表 大坪信之

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