コラム

2017/07/2028 加藤清正に学ぶ誠実さの重要性

加藤清正という人を知っていますか?

加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、肥後国、熊本藩の初代藩主となりました。
その勇ましさや武将としての数々の逸話が、武神として語り継がれる一方で、誠実で優しい人格と信義を重んじた生き方から、今も人々に愛され敬われています。
そんな加藤清正は、仁と勇とを兼ね備えた、素晴らしい武将であったといわれています。

清正は、永禄5年(1562年)に現在の名古屋市である、尾張国愛智郡中村に生まれました。
母、伊都の親戚の縁で、清正が十歳前後のときに、若き日の豊臣秀吉のもとに仕えさせるようになりました。
清正は、その頃からたくましい身体とすぐれた知恵を持ち、武芸においても卓越した少年でした。

秀吉は、清正を大変にかわいがり、たくさんのことを教えたそうです。
清正は、秀吉にならって、何でもよく学びました。
こうして清正は健やかに育ち、義侠心と信義に満ちた、誠実で優れた武将へと成長するのです。

清正の誠実さをよく表す逸話に、こんな話があります。

愚直なまでに誠実で、秀吉やお世話になった人々に、いつも忠義を尽くした清正でしたが、あるとき石田三成に陥れられてしまい、秀吉の怒りによって、伏見にあるお屋敷に謹慎させられていたことがあります。

そんなある夜のことです。
伏見を大地震が襲いました。
そのとき、清正が一番に思ったのは、自分の身の安全ではなく、御恩を受けた秀吉のことでした。

清正は、地震が静まるが早いか、すぐに部下のものを集め率いて、秀吉の城に駆けつけました。
そして夜が明けるまで眠らずに、その門を守っていたというのです。
なんと誠実で、忠義に満ちた勇姿でしょうか。
秀吉は光成の讒言により、誤解ではあるものの、清正を疑い、怒りを抱いていたのです。

しかし、そんなことは、清正には微塵も関係がなかったのでしょう。
自分の身の危険も顧みず、清正が矢のように飛んでいったのは、お世話になった秀吉のもとでした。
この誠実で信義に満ちた行動が、秀吉の怒りを解いたことは言うまでもありません。

こうして清正の無実は明らかとなり、その後も清正は、生涯をかけて、秀吉に忠誠を尽くしました。
そして清正は、秀吉がこの世を去った後も、信義を貫き続けます。

秀吉には、まだ幼い息子の秀頼がいました。
しかし、秀吉の死後、次第に徳川家康の勢いが増し、秀吉の生前に豊臣氏の恩恵を受けた大名も、次々に家康につき従うようになり、秀頼は、あまり顧みられなくなっていました。
それでも清正は、決してご恩を忘れることなく、秀頼に常に誠実に仕えました。
清正は、生涯にわたって、秀吉に信義を貫いたのです。

清正は、秀吉だけに限らず、お世話になった人々や周りの人に、常に誠実に優しく信義を貫き続けました。
その誠実な人柄と美しい生き様は、広く人々に愛され敬われ、熊本では「せいしょこ(清正公)さん」の呼び名で、今も親しまれ、崇められています。
生涯を通じて忠義を尽くし続けた清正のように、私たちも誠実で美しくありたいですね。

コペル 代表 大坪信之

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