コラム 大坪信之のワンポイント徳育アドバイス

2018/02/2035 子どもを育てる親も参考にしたい、伊能忠敬に学ぶ勤勉さの重要性

伊能忠敬という人を知っていますね。
彼は「人生五十年」と言われた時代に、五十歳を過ぎてから勉強のために江戸に向かい、日本国中を測量してまわって、初めて実測による日本地図を完成させた偉人です。
今回は、伊能忠敬の生き方から、「勤勉さ」の重要性を学んでいきたいと思います。

伊能忠敬は、現在の千葉市である上総に生まれ、十八歳の時に下総佐原村の伊能氏の家をつぎました。
伊能氏は、代々、酒や醤油を造る地元では名の知れた資産家でしたが、どんなに豊かになっても富を独り占めにすることはなく、関東に二度も飢饉があった時には、二度とも多くのお金や米を人々に分け与え、困っている人々を助けます。

忠敬は、五十歳になると家を長女に譲りましたが、そのまま楽をしようとしたわけではありません。
忠敬の胸には、「これから一心に学問をしよう」という熱い思いがあったのです。

忠敬は、意を決して江戸に出ます。もともと天文・暦法が好きで、江戸に出ると間もなく、高橋至時という天文学者を訪ねます。
彼が語る精密な西洋暦法の話を聞いて、大変感銘を受けた忠敬は、自分より十九歳も年下の、至時に弟子入りすることを決めました。

それからというものの、忠敬は数年間、片時も怠けることなくたゆまず勉強を続けたため、弟子の中では誰にも負けないほど、学問が上達しました。

忠敬が五十六歳の時のことです。彼は北海道の東南海岸を実地に測量し、地図を作って幕府に提出しました。
その地図の出来栄えが、あまりにも素晴らしかったため、更に幕府の命を受けて、諸国の海岸線や陸地を測量することになったのです。

雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も、忠敬はいとうことなく遠方まで出かけて行って、とうとう七十二歳になった頃、日本全国の測量をすませたのです。
それからも忠敬は、身体の自由が利かなくなるまで、大中小三種類の日本地図を作ることに努めました。
日本の正しい位置や形状が初めて明らかになったのは、紛れもなく忠敬の手柄なのです。

ここで、忠敬の生き方をよく表した格言をご紹介しましょう。
精神一到何事カ成ラザラン
この格言は、『精神を集中して努力すればどんなことでも成し遂げられないことはない』という意味を持ちます。

五十歳を過ぎてから学問を究め、自分の足で測量し、日本地図を完成させるなどということは、当時の寿命を考えると信じがたい偉業です。
忠敬が、この素晴らしい仕事を達成することができたのは、彼のたぐいまれなる勤勉さのおかげなのです。