コラム 大坪信之のワンポイント徳育アドバイス

2017/12/2033 水戸黄門に学ぶ、幼児教育にも役立つ、慎みの心とは

水戸黄門は、テレビでも多く取り上げられるため、ご存じの方が多いかと思います。
しかし、そのモデルとなった、常陸国水戸藩第2代藩主・徳川光圀について、詳しいという人は、少ないのではないでしょうか。

明治維新の原動力となった『水戸学』の祖としても知られており、学芸振興や財政改革に注力した人物。徳川家康の孫に当たり、徳川一門の長老として、将軍綱吉期には、幕政にも影響力を持っていました。

また、大日本史という、名高い歴史の本を作った人でもあります。
今回は、その徳川光圀公の生き方から学べる「幼児教育の知見」をご紹介したいと思います。

光圀は、水戸藩主として何不自由のない身分でありながら、いつも倹約を守っていました。普段の着物や食べ物も、藩主とは思えない、粗末なものでした。

また、光圀は、紙を丁寧に使いました。普段ものを書くには、大抵、反故紙の裏を使いました。ところが、女中たちが紙を粗末に使うので、光圀はそれを止めさせようと思い、ある冬の日に、紙すき場を見せました。

その日は寒い日でしたが、紙すきの女たちは、川風に吹かれながら、冷たい水に入って、手も足も真っ赤にして働いていました。
女中たちは、この様子を見て、自分たちの使う紙が、どんなに人々の苦労のおかげでできるか、ということがわかったので、それからは、一枚でも粗末にしないようになりました。

光圀は、34歳で第二代水戸藩主となりました。光圀は、文教中心の政治理念をかかげて、藩政の改革に、懸命に取り組みました。

特に、農民の苦しい生活に心をいため、数々の施策を実行します。
領内を常に巡視して歩き、きびしい生活にあえぐ、農民の生活を思いやり、天和三年(1683年)には藍・紙・鮎・鱒などの税を免除しました。

もちろん、藩としては収入が減少するので、反対の声が上がりましたが、光圀は「民の困窮をみて国用の不足を意とせず」と、この政策を断行したと伝えられています。

藩の財政も苦しい状態でした。光圀は、自身も厳しく倹約しましたが、それだけではなく、たびたび節約令を出して、農民のそれぞれの家の財政を立て直させようとしました。
それでも効果がないと見ると、農民に金を貸しました。

さらに、飢饉に備える貯蔵倉の設置や、魚介の養殖の奨励、農民などに対する高利貸しの貸付金の利息を、一割に制限するなど、あらゆる方法で、農民の生活を助けようとしました

ひたすら領民の生活を思いやり、藩内外から名君と仰がれ、他の領地の農民が「水戸様のお百姓になりたいものだ」とため息をついたと伝えられています。

最後に、光圀の残した言葉を紹介したいと思います。

子ほど親を思え 子なき者は自分の身を思う気持ちほど親を思え 近き手本と知るべし
掟を恐れよ 火を恐れよ 分別なき者を恐れよ 恩を忘れることなかれ
分別は堪忍にあるべしと知るべし

人の心というものは、最初に頭に入ったことが容易に変えられず、物事の判断を間違うことになりがちだ。
優雅な暮らしは知っていても、それを支えている労苦を知らないようでは、人々をいつくしみ哀れむ心が薄くなり、情けにうとくなる。

社会全体が豊かになり、人々が生きがいを持って安心に暮らせるような世を目指して、人の上に立つものはまず自分の身持ちを慎まなければならない、ということを伝えています。

素晴らしい名君だったことがうかがえる言葉ですね。私たち自身も感謝と慎みを持って生き、それを子どもにも伝えていけると良いですね。